いつかあなたに逢いたい

2015年12月に6年付き合っていた最愛の彼を喪いました。
正直どう生きていったら良いのかわからないまま・・・今を過ごしています。

思い出すと嬉しくなる

うーん、最近どす黒い記事ばかり書いているな。

たまには想い出話でも書こう。


彼のアパートと私のアパートのちょうど中間くらいの所にショッピングセンターがある。

平日、仕事帰りに会う時はそこで待ち合わせすることも多かった。

そこで夕飯を食べて閉店までずっと他愛もないことを語り合ったり、ショッピングセンター内のゲームセンターで遊んだり、買い物をしたりしていた。

慣れない仕事で疲れていたけれど、彼と過ごすと本当に癒された。


ある日、いつものように閉店近くまで遊んで解散という時。

「じゃあまたね」と駐車場へ行こうとすると、「あっ、待って」と彼。

「ナナドゴブの車の所まで見送るよ」と言ってくれた。

その日、彼が車を停めた場所と私が停めた場所は結構離れていた。

私の所まで見送ってたら、確実に遠回りになる。

「えっ、いいよ。大丈夫だよ。悪いよ。」と言ったら「いーの!心配だし。・・・もうちょっとだけでも一緒に居たいし。」と言いながら手を繋いできた。

嬉しくて手を握り返しながら一緒に歩いたなぁ。

たった数十メートルの距離だったけど、幸せだった。

本当にありがとう。○○。


えぇ、ただの彼自慢でした。

手話(2)

手話の講座へ通うのもこれで3回目。

指文字を始め、たくさんの表現の仕方を習った。


手話は手の動きで言葉や文字を表現して伝える。

ただそれだけではない。

声で伝えることができないため、微妙なニュアンスが伝わりにくい。

それを伝えるため、表情や手の動きの大きさなど全身を使った表現が求められる。

また、相手の伝えたいことを読み取るため、観察眼も必要。


うーん、集中力と表現力。

どっちも今の私には全くと言っていいほどないものだ。

仕事では無理やり引き出しているけれど(本当に引き出せているかはわからないが)、1日持続してはいないと思う。

講座では笑ったり、怒ったり、悲しんだりして表現しなくてはいけない時もある。

上手くできているんだろうか。心配だ。

ちょっと今の自分にはハードル高かったかな。

でも手話は楽しいし・・・


そして講座はあと20回近く。

頑張らなければ。手話も覚えて自分のものにしなくては。

1年を通して何かを得られたらいいな。

どうしても・・・

いよいよコイツは気が触れたのか、と思われそうだけれど。

もう生きているうちは会えないとどうしても思えない。

いや理屈では理解しているんだけど。

実感が伴っていないというか。


彼が死んでしまった(この表現はあまり使いたくないが)、もうこの世にはいないということはわりとすぐに実感できたと思う。

短かったけれど闘病するところも見てきたし、意識レベルが悪くなっていくのも見たし、最期だって看取ったし・・・。

でも「死んでしまった」ということと「もう会えない」ということが=で結びついていない。いや普通は結びつくんだろうけれどね。

頭ではわかろうとしているんだけど、無理にそれを結びつけて納得させようとするとわけがわからなくなって、何かこみ上げるものがあって、過食に走ったり泣き喚いたりする。

これもある意味彼の「死」を受け容れられてないんだろう。


彼が「死んでしまった」のだとしても、今でも何らかの形で会えるんじゃないか、姿を見たり声を聴いたりできるんじゃないか、そう思ってしまう。

実際彼のお墓参りに行く時は、彼がそこにいてくれるんじゃないかと期待してしまう。

うーん、狂ったのかな。


でも一方で冷静な自分もいる。

彼の前にも数は少ないけれど人の「死」を見てきた。

自分の祖母。学生時代の恩師。友人の母。

彼よりずっとずっと前に亡くなっているが、それでも「会えた」とは聞いたことがない。

また、多くの同志の方のブログを読んでいると、皆さん亡くなった方と強い絆で結ばれている。

それでも「会えた」という話は聞いたことが無い。

だから無理なんだろう、と。


でも願ってしまう。

彼が私の前に現れて「ナナドゴブ~」と優しい声で呼んでくれて抱きしめてくれることを

どんなに無理だと頭ではわかっていても。周りから「馬鹿だ」と言われても。

願うことは辞められない。